ロシアでも、中国の干支が、普通に信じられてたなんて、超意外な感じですね〜〜〜
でも、日本みたく、生活に密着してるところまで、干支がロシア人の間で浸透してる
とは、信じられませんけど・・・
そもそも、ロシア人が、そんなに、占い好きだったなんて、とんと知らんかった・・
でも、この獣医のコメント「ネズミ好きじゃない人に贈られたネズミは、捨てられるんでしょ・・」
とは、まあ、本当なんでしょうけど、ちょっと複雑な心境ですね、、サムライ的には・・・
なぜって、わたくし、ねずみ年生まれで、今年は、年男なんで・・・
ねずちゃん、かわいがってあげて欲しいもんです!!
干支とは
干支
01
甲子 02
乙丑 03
丙寅 04
丁卯 05
戊辰 06
己巳 07
庚午 08
辛未 09
壬申 10
癸酉
11
甲戌 12
乙亥 13
丙子 14
丁丑 15
戊寅 16
己卯 17
庚辰 18
辛巳 19
壬午 20
癸未
21
甲申 22
乙酉 23
丙戌 24
丁亥 25
戊子 26
己丑 27
庚寅 28
辛卯 29
壬辰 30
癸巳
31
甲午 32
乙未 33
丙申 34
丁酉 35
戊戌 36
己亥 37
庚子 38
辛丑 39
壬寅 40
癸卯
41
甲辰 42
乙巳 43
丙午 44
丁未 45
戊申 46
己酉 47
庚戌 48
辛亥 49
壬子 50
癸丑
51
甲寅 52
乙卯 53
丙辰 54
丁巳 55
戊午 56
己未 57
庚申 58
辛酉 59
壬戌 60
癸亥
干支(かんし、えと)は、十干と十二支を組み合わせたものである。十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)の略。10と12の最小公倍数は60なので、干支は60期で一周することになる。そのため六十干支(ろくじっかんし)ともいう[1]。中国やアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時や方位、角度、ことがらの順序をあらわすのにも用いられ、陰陽五行説とも結びついてさまざまな占いにも応用された。古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。
起源は商(殷)代の中国にさかのぼる。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。ベトナム、北朝鮮、韓国、日本などに伝わった。
なお� ��日本語で「えと」という場合、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支に割り当てられた動物(十二獣)の総称であるかのような用法がよくみられるが、後述するように、「え」も「と」も本来は十干に由来するものであって、厳密には誤りである。
目次 [非表示]
1 概略
1.1 十干
1.2 十二支
1.3 干支概略史
2 干支による紀日
3 干支による紀月
4 干支による紀年
4.1 歳星紀年法
4.2 太歳紀年法
4.3 干支紀年法
4.3.1 生肖紀年法
4.3.2 干支紀年と日本
4.3.3 朝鮮史と干支紀年
5 陰陽五行説との結びつき
5.1 陰陽五行説と十干
5.2 陰陽五行説と十二支
5.3 五行説と干支
6 時刻と方角
6.1 時刻
6.2 方位
7 干支にかかわる伝承や俗信
7.1 還暦
7.2 辛酉革命、甲子革命
7.3 庚申(こうしん)
7.4 丙午(ひのえうま)
7.5 干支と年中行事
7.6 選日
7.6.1 天赦日
7.6.2 三隣亡(さんりんぼう)
7.6.3 十方暮(じっぽうくれ)
7.6.4 三伏(さんぶく)
7.6.5 それ以外の選日
7.7 干支と占い
7.7.1 十二直
7.7.2 現代における干支占い
8 干支の求め方
8.1 年の干支
8.2 月の干支
8.3 日の干支
9 干支一覧
10 脚注
11 関連項目
12 参考文献
13 外部リンク
[編集] 概略
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12の要素からなっており、あわせて干支と呼ぶ。
[編集] 十干
十干 日本語 中国語 朝鮮語 ベトナム語
音読み 訓読み 意味
甲 こう きのえ 木の兄 jiǎ 갑 (gap) giáp
乙 いつ、おつ きのと 木の弟 yǐ 을 (eul) ất
丙 へい ひのえ 火の兄 bǐng 병 (byeong) bính
丁 てい ひのと 火の弟 dīng 정 (jeong) đinh
戊 ぼ つちのえ 土の兄 wù 무 (mu) mậu
己 き つちのと 土の弟 jǐ 기 (gi) kỷ
庚 こう かのえ 金の兄 gēng 경 (gyeong) canh
辛 しん かのと 金の弟 xīn 신 (sin) tân
壬 じん みずのえ 水の兄 rén 임 (im) nhâm
癸 き みずのと 水の弟 guǐ 계 (gye) quý
[編集] 十二支
十二支 日本語 中国語 朝鮮語 ベトナム語
音読み 訓読み
子 し ね zǐ 자 (ja) tý
丑 ちゅう うし chǒu 축 (chuk) sửu
寅 いん とら yín 인 (in) dần
卯 ぼう う mǎo 묘 (myo) mão/mẹo
辰 しん たつ chén 진 (jin) thìn
巳 し み sì 사 (sa) tỵ
午 ご うま wǔ 오 (o) ngọ
未 び ひつじ wèi 미 (mi) mùi
申 しん さる shēn 신 (shin) thân
酉 ゆう とり yǒu 유 (yu) dậu
戌 じゅつ いぬ xū 술 (sul) tuất
亥 がい い hài 해 (hae) hợi
[編集] 干支概略史
亀甲獣骨文字(ウシの肩胛骨に甲骨文字が刻されている)、上海博物館蔵
殷商帝室の系譜干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨からたくさんの干支が日付をあらわすために用いられている。もともと干支は、60進法による紀日・番号・数字であった。殷代ではこれを「十日十二辰」と呼称していたようである。甲骨文には、干名のみで日をあらわすこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える(これについては、殷の天子の一覧 も併せて参照されたい)。
春秋戦国時代に、世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行説が起こって上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼ぶようになった。さらにそれを幹と枝にたとえて「十干十二支」あるいはそれを縮めて「干支」という表記が定まったのは、後漢代からである。
月や年をあらわすために干支を用いるようになったのは、殷代よりも後世に属する。月に関しては、殷代までさかのぼる可能性もあるが、広く普及したのは、戦国時代以降である。
年をあらわすには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木� ��の位置により、次には十二支により、漢代には干支の組み合わせによって年をあらわすことが広くおこなわれるようになった。
1日24時間を十二支に分けるようになったのも漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦代にもみられるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」[2]とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。
方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。
ただし唐の時代に編纂された兵書である「神機制敵太白陰經」(李筌編)の巻九「遁甲巻」において、夜半、鶏鳴といった時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い� �を要したであろうと推測できる。
[編集] 干支による紀日
亀の甲羅に書かれた甲骨文(拓本)。複数の卜占のことが記されているが、たとえば、左から3行目冒頭に癸酉と見える。干支紀日法(干支によって日付を記述する方法)は、上述のとおり、すでに殷代の甲骨文に現れている。
西洋では1月を4分割して「週」(7日)というサイクルを編み出したが、古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。[3]10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。
ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、� �3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジアの歴史書にも広く使用されている。
殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1より始まる順序数(自然数)を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。ただし、月名を十二支で表記することはあったとされる。
なお、現在のような1日、2日、3日…という順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とさ� ��ている。
中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。
[編集] 干支による紀月
上述のとおり、月名を十二支で表現することは殷代にさかのぼる可能性がある。古くより中国では冬至を含む月を11月とする習わしがあり、この月を「子月」と呼び、以下12月を「丑月」、正月を「寅月」と呼んだ。
こうした呼び方は戦国時代よりあったが、さらに月名に十干を加えることは唐代にはおこなわれており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は丙、乙や庚の年は戊、丙や辛の年は庚、丁や壬の年は壬、戊や癸の年は甲となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。詳細は、下表に示す。